人間性を見てしまうとき[No.3129]
(長めになっています)
僕は、気にしたくなくても、
つい気になってしまうコトがあります。
それは、人の不幸を見て喜んでいる人。
「いいきみだ。ざまあみろ」
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そう言った本人は、幸せになるのでしょうか。
「あぁスカットした!ストレス解消した?」
それは、いつまでどこまで続くのでしょう。
ほんの一瞬ではないですか。
前々からずっと気になっているのですが、
どうして人間は、楽しかった思い。
スッキリした思いは一瞬なのに、
つらかったコト、頭に来たコト、イライラしたコト。
嬉しくない気持ちを、ずっと引っ張り続けるのでしょう。
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僕が思うに、嫌な気持ちをずっと引っ張り、
他人の不幸を喜んだりしている時点で、
その人のエネルギーや時間は、
不幸に費やしているように思うのです。
そんなコトで、幸せになれるでしょうか。
無理に、他人の不幸に同調したり、
そこにエネルギーをつかうのもどうかと思いますが、
苦しんでいるときに、苦しい話題をするのではなく、
苦しいからこそ、楽しい話題をして、
軌道修正するほうが、生産的だと僕は思うのです。
他人の不幸を「ざまあ」と見て、
なにか生まれるでしょうか。
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僕は、どうしたら助けられるのか?
また、助けても良いものなのか?
そうならない為にはどうしなければならないのか?
その相手にとって適切な処置とはなんなのか?
日々、考えています。
目の不自由な人がいて、安易に手を貸すコトも、
僕は考えてしまいます。
表面上は、手を貸すコトは親切に見えるかもしれない。
けれど、僕が手を貸すコトによって、
ひとりでは動けなくなってしまうかもしれない。
でも、本当に不自由して困っているかもしれない。
僕の目の前に、目の不自由な人が現れたときは、
いざというときは、いつでも手を貸せるように、
僕の視界から見えなくなるまで、見守るコトにしています。
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そういう目線で見ていると、
自分や仲間が困っているとき、どうすればいいか。
答えが見つけやすいんですよね。
僕が思うに、人の不幸は見て喜ぶものではなく、
どう対処するべきか、考えるチャンスだと思うのです。
テレビで、震災被害を見た人たちは「ざまあ」
なんて思ったでしょうか。
「明日は我が身かもしれない!」
少しは、備えを考えたのではないでしょうか。
他人の不幸を笑う者は、
明日は我が身かもしれないのです。
今日感じたコト
他人の不幸を喜ぶ暇があるのなら、
我が身を心配する必要があると感じます。
人間性を見てしまうとき[No.3129]
今日も最後までありがとうございます。
僕のもうひとつのブログ
「嬉しいコト@カラフル!」
http://ameblo.jp/moriyama-tomomi/
お暇な方は遊びに来てくださいね。(^^)
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