「なぜ景気が悪いのだろうか?」なんて考え出すと、最終的には「国が悪い」…と言う事になってしまうと思うのですが、それでは話が終わってしまう
もっと具体的な何かがあるハズ…と身の回りと社会の事を考えてみる
なぜ景気が悪い? → 物が売れないから → なぜ売れない? → 必要でないから → なぜ必要でない? → 現状で事足りているから
実際に自分も「特に欲しい物があるか?」と質問されると特に無いのですが、無い理由は「自分が欲しい物が無いから」
ここで「ケータイ」を例に挙げると、最近はケータイ一つで何でも出来る「ネット、メール、テレビ、ゲーム、音楽プレイヤ、デジカメ、メモ帳、電卓、簡易ライト、簡易辞書、地図、GPS」さらにネットが使える事によって、ネットワークサービスの「金融機関、売り買い、情報採取に発信」も出来てしまう
僕がなかなか自分用のデジカメを買わなかったのも、ケータイにデジカメ機能があるから…
もちろん性能的には単体のデジカメよりは、ケータイのデジカメは劣りますが「とりあえず使える」と言う気軽さに毒されているような気がしています。
もしケータイにデジカメ機能が無いなら、即デジカメを購入している事でしょう
なんだかケータイは「越えてはならない壁を越えてしまった」ような気がします。
ここでちょっと「コンビニ」の登場ですが、コンビニに行けば 24時間いつでも自分の好きな食べ物は殆ど買えてしまう「和風、洋風、中華、イタリアン、他」
僕の小さい頃「お寿司」と言えば何か特別な祝い事がある時に食べるものであり、貴重な食べ物だった…でも、今はコンビニでもお手軽な価格で手に入る事も出来る…お寿司と言う商品価値が下がってしまう
今度は「おもちゃ屋さん」に行ってみよう
僕の小さい頃おもちゃのラジコンでも1万円以上する高価な物でした、お年玉を貯めてやっと購入したラジコン…苦労して手に入れたので大切に扱うし、壊れたらなんとか直そうと必死になる「高価な商品」でした。
でも、今はおもちゃのラジコンなら安い物で千円位で買えてしまう…
千円で買ったラジコンが壊れても修理代の方が高くつくので千円ラジコンは「単なる消耗品」に…消耗品なので「物を大切にしない子どもが増えてもおかしくない」ですね。
「高価な商品だった頃のラジコンは何処へ?」
今度は「コミケ」に行ってみよう
コミケと言えば、一般の方が趣味で行う同人活動で創った「作品の即売会」
一般の方が書いた本 (同人) は「プロの漫画家が書く作品とは違う」魅力があった
でも、最近のコミケは同人以外にも「企業ブースの出展」も沢山ありますね。
はて?コミケは「同人?企業?」
ゲームで遊んでみよう
ゲーム会社から購入した某有名プレステ2用ゲームソフト「流石企業の作った物は出来が良い」…
元ネタは同人ですよ…
アニメを観て見よう
ストーリー展開が面白い…次の話が気になる…「流石プロの作った作品だ」…
ソレ原作は同人ゲームですよ…
アニメの元がゲーム?…で原作は同人だから…えっと (;・∀・)
なんだか「アニメとゲームの境目」、「プロと同人の境目」が無くなりつつありますね (;・∀・)
例えプロが創った作品でも「面白くなければ素人同然」…
同人が作った作品でも「面白ければプロ同然」
と思っているのでそれで良いかと思っていました…
でも、最近は「越えてはならない境界線に足を入れている」ような事を感じます。
それは「その作品は商品扱い?、作品扱い?」
僕の頭の定義では「商品と作品は別物」なのですが、
商品だって開発者からすれば作品には間違いないのですが、会社組織で行う場合は営利目的、よって作品ではなく「商品」だと思っています。
作品は、利益とは関係なく「素晴しい作品を公開共有 (文化の発展) する事」と思っています、よって二次創作でも素晴しい作品 (自分が好きで創った作品ファンアイテム的等) であれば、同人でも「最低限の報酬」は有っても無問題と思っています。
でも最近では、同人でも利益目的なサークルが…
報酬等一切考えずに公開した作品が、企業から目を付けられ「商品」に…
「同人も商業も区別が無い状態」では、視聴者側も「○○がメリットの同人」「□□がメリットの商業」と明確にしづらいですね。 (;・∀・)
白黒ハッキリしない…2次創作に至ってはまさに「グレーゾーン」と言うように、白と黒の「仕切が外れ混ざり合った状態」…
白が欲しい人も、黒が欲しい人も「グレーしか作品が無い」場合はきっと買わない
もちろんグレーが好きな人も居るので、グレーは売れると思いますが、それは「白・黒・グレー」と選べる時に「グレーと言う存在価値」があると思うのですが「グレーしか無い状態で存在価値」は果たしてあるのでしょうか?
「境目、壁、境界線、仕切」を考えていると、ベルリンの壁を思い出してしまう。
壁があった時は争いが起こる…壁が壊された時「平和」がやってきたのかもしれない
それは今まで争いがあったので、平和と感じる事が出来る
でも、ずっと壁が無くなった状態 (平和) であれば、平和の有り難味が薄れてしまう
境目が無くなれば「社会は皆平等で平和」な暮らしが出来ると思う「お金持ちと貧乏の境目」等
お金持ちはお寿司を食べれる、貧乏でも100円寿司でお寿司は食べれられる
今の世の中では「俺はビッグになって寿司を沢山食ってやるぜっ!」なんて精神は生まれてこないような気がします。
別にビッグになるつもりも無い人間が仕事をしても「本当に良い作品」は生まれてこないと思うのです。
会社としてはせっかく創った作品が売れないのも困る…と価格を下げる…
価格を下げる事により、作品の価値も下がってしまったかのようにも思える…
そんな作品が多ければ、本当に良い作品も作品数と言う相手に押しつぶされ光が届かない…
数多い作品は、低価格な商品になり…消耗品になっているような気がします…
何を考えていても「境目、壁、境界線、仕切」と言う要素は重要のようですね。
平和ボケともそろそろお別れしないといけないのかもしれない…自分も含めて…
(注意)…と、僕が思っているだけなのかもしれないので、全部鵜呑みにしない事
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